速球王についてしばしば語られる際、ランディ・ジョンソン、ノーラン・ライアン、ボブ・フェラー、はたまたサチェル・ペイジなど、球史に名を残したレジェンド達が話題に上がるのは当然だが、もう一人忘れてはいけない人物がいる。
”白い稲妻”こと、スティーブ・ダルコウスキーである。
メジャーのマウンドに上がったことすらなく、マイナーリーグでも特に目立った成績を残したワケでも無い選手が、、それでも彼の速球が伝説的に語り継がれているのだから、相当速かったのだろう。
1939年、コネチカットはニューブリテンに生まれたスティーブ少年は、分厚いメガネにIQ60という知能しか持たなかったが、身体能力には恵まれていたようだ。フォレストガンプは足が速かったが、彼の場合は肩が強かった、そんな感じだろう。
野球のピッチャーとしてだけではなく、アメフトのクオーターバックとしても州屈指のプレイヤーとして活躍した後、オリオールズと契約、マイナーでプロ野球選手としての生活をスタートさせた。
当時オリオールズの監督をしていたカル・リプケンSr.いわく、ダルコウスキーの速球は115マイル(184キロ)程度!だったと言う。
また、「ボルティモア伯爵」こと、17シーズンに渡ってオリオールズの監督を務めた、アール・ウィ―バーは、ダルコウスキーはノーラン・ライアンより”だいぶ速かった”と言っている。具体的な球速まで言及していないものの、101マイルのライアンより”だいぶ速い”となると、105~110マイル(168~176キロ)程度だったのではないかと推測されている。
時には対戦したバッターの耳を引きちぎったとか、
キャッチャーが捕れなかったボールがそのままアンパイアの顔面を直撃し、3日間入院させたとか、
オープン戦で対戦した、最後の4割打者こと、テッド・ウィリアムズは「速いにも程がある。二度と対戦したくない」とか、
オリオールズで活躍した同僚のポール・ブレアは「かつて無いほど速い。そしてワイルドだ。」
などの証言が残されている。
そう、ダルコウスキーは、速いだけでなく、とんでもないノーコンだったのだ。
当時のマイナーリーグの記録を覗くと、ダルコウスキーの登板イニング数と比べて、とんでも無い数の三振と、とんでも無い数の四死球が記録されている。
結局ノーコンがたたり、一度もメジャーのマウンドを踏まないまま、野球人生を終えたダルコウスキーは酒におぼれ、貧しい生活の中、全米各地を転々とし、ひっそりと消息を絶った。。。
しかしあまりにも速かった速球だけは、いまだ伝説として生き続けている。というワケだ。
今日「最も速かった速球」のギネス記録として認定されているのは、一応ノーラン・ライアンの101マイル(162キロ)とされているが、まだまだ今回取り上げたピッチャー以外にも伝説は尽きない。
一方で、「球が速ければ良いピッチャー」というワケでは無いことは重々承知なのだが、「100マイルを超える速球」ってのは、いつの時代も野球ファンの胸をときめかせてくれるヒビキなのである。
尚、ダルコウスキーには後日談がある。
1990年代になって身柄を発見されたダルコウスキーは、重度の認知症とアルコール中毒を患っていたものの、徐々にリハビリで健康な身体を取り戻し、2003年の9月、始球式と言う形でついに念願のメジャーリーグのマウンドを踏むことになる。
その時の写真が、、、コレだ。
Steve "White Lightning" Dalkowski
スティーヴ・ダルコウスキー
(メジャー登板無し)マイナー実働9年 236登板
995投球回 1396奪三振 1354与四死球 682被安打 46勝80敗 防御率5.59