2014年3月12日水曜日

デレク・ジーターという男について、いま一度考えてみた

190cmの長身に褐色の甘いフェイス、天下のヤンキースのキャプテンにして、知的で闘志溢れるプレースタイル。5個のチャンピオンリングとヤンキース史上最多安打記録を持ち、引退後即背番号2は永久欠番確定でクーパーズタウン行きも間違いない。


生涯獲得年棒は250億円を超え、住まいはマンハッタン5番街のトランプタワー最上階をフロアでぶち抜き(最近引っ越したらしいけど)、私生活では幾多の美女と浮き名を流すプレイボーイ。その上オフにはチャリティ活動に精を出す(2009年にクレメンテ賞受賞)というナイスガイ。。


こんな完全な男、世界中見渡してもなかなかいないだろうな。



デレク・サンダーソン・ジーターは1974年6月26日、アフリカ系黒人の父チャールズとアイルランド系白人ドロシーの間に生まれた。異なる人種の両親の間に生まれた環境や、とりわけ父がライフワークとして取り組んでいたチャリティ活動が、以降の彼の性格形成に大きく影響と言われている。熱狂的なヤンキースファンだった祖母の影響で、幼少期のジーターの夢は既に「ヤンキースのショートストップになること」だった(この点については本人の引退表明文の中でも言及されている)。


ミシガン州カラマズーセントラルハイスクール時代、既ににその才能を開花させていたジーターは、1992年のドラフトでヒューストン・アストロズから全米1巡目1位指名を受ける、ハズだった。。


当初この若きスター候補を指名しようとしていたのは、当時アストロズのベテランスカウトだったハル・ニューハウザーであった。ニューハウザーは現役時代タイガースのエースとして活躍し、207勝をマークしていた実績のある人物だったが、控えめな性格で滅多に大げさに選手を褒める事はなかった。にも関わらずジーターに関しては「今後チームを何度もワールドシリーズに連れて行くような特別な選手。野球の才能も去ることながら、人格的にもこれほど優れた選手はいない」とフロントに獲得を懇願したものの、結局アストロズはその年、大学出身の内野手フィル・ネビンを獲得した。


結果的にアストロズが1位指名を見送った後、1巡目6位でジーターは運命的にヤンキースに指名されることになった。今でこそ”常勝軍団”というイメージのヤンキースだが、ジーターがメジャーに定着する前の過去30年(1965年-1994年)でプレーオフに進出したのはたった5度と、長きに渡る低迷に甘んじていた。


それがジーターのメジャー定着後は実に19年で17度もプレーオフに進出、うち5回のワールドチャンピオンに輝いた。まさにニューハウザーの予言がピタリと当たったというワケ。ニューハウザーはこれほど自信を持って薦めた選手が認められないのであればこれ以上スカウトを続ける意味が無いとして、これを機に球界から退いた。98年に死去するまでジーターの活躍をどんな想いで見守っていたことだろうか。


さてジーターはヤンキース入団後、数年マイナーで活躍した後、いよいよ1995年の5月29日に故障者リスト入りしたトニー・フェルナンデスの代わりにメジャー昇格、いよいよ伝説の幕が開けた。そういえば95年の5月といえば日本から海を渡った野茂英雄がメジャーデビューした月と同じで、この2人の活躍が前年のストライキから続いていたファンのフラストレーションを晴らすのに一役買ったことは言うまでもないだろう。


ちなみにこの時ジーターと入れ替わりになったフェルナンデスはその後2000年に西武ライオンズで1年プレーしており、記憶にある方もいるのではないだろうか。メジャーで大きな実績を残したにも関わらず謙虚だが、かなりの変人キャラとして有名だった。


その後ジーターは「MR. NOVEMBER」、「CAPTAIN CLUTCH」といったニックネームと共に快進撃を続けたのは皆さんご承知の通り、何と言っても有名なプレーは2001年プレーオフの「THE FLIP」だろう。このプレーについては散々語られ尽くされているので、敢えてムービーだけ添付しておく。このプレーで本塁で憤死したジェイソン・ジオンビーが翌年ヤンキースに移籍するや否や「おいジーター、あのプレーの練習を見せろよ!」とジョークを飛ばしたのは有名なハナシ。


個人的に一番印象に残ってるプレーは2004年7月1日のレッドソックス戦の「THE DIVE」である。近くにいたAロッドが「死んだと思った」と証言したくらい激しいダイブだった。持ち前の甘いフェイスを怪我したジーターは、試合中バンドエイドで応急処置をしたのだが、翌日ヤンキースタジアムを訪れた多くの少年ファンが顔にバンドエイドを張ってきたというエピソードもファンの間では語り草である。




こうした知的で闘志溢れるプレーや、トレードマークとなった華麗なジャンピングスローでファンを魅了し続ける一方で、年々加熱するセイバーメトリクスの進化、セイバー教の発言力の増大に伴い、次第にジーターの守備力に疑問を呈する評論家が増えてくる。実はジーターは打球に対する反応が遅く、守備範囲が狭い、守備力は概ねメジャー平均以下。にも関わらず5度のゴールドグラブ賞は過大評価だと。。


こういった一部の評価に加え、前年の成績が振るわなかった2010年には、いよいよキャリアの黄昏時を迎えつつあったジーターの処遇にヤンキースのフロントは頭を悩ませていた。ヤンキース一筋で活躍してきたチームの顔だが、成績と年棒・契約年数のバランスを取る事が難しい。今や終身雇用が有り得なくなっているメジャーリーグにおいて、ジーターの流失もささやかれていた。


しかしながら結果的に3年50億という「誠意」を見せたヤンキースと契約を更改し、この時点で”生涯ヤンキース”がほぼ確定した。当時「払い過ぎでは?」とのメディアの批判に対した、ハル・スタインブレナーのコメントがこれまた秀逸だった。

「我々は彼の成績だけにサラリーを払っているのではない、”伝説”に投資しているのだ。。」


これまで通算打率.312、3316安打を放ってきたジーダーだが、打率、打点、本塁打での個人タイトルは一度も獲得したことが無く、守備力を疑問視する声もある。ただしジーターの価値はプレーオフで放った200以上のヒットや、5個のチャンピオンリング、何より20年の長きにわたって大きな怪我も無くメジャーのショートストップ一筋でプレーし続けたことでは無いだろうか。


かつてジーターとともに”3大ショートストップ”と称えられたガルシアパーラがキャリア晩年はファーストを守り、Aロッドが現在薬物使用疑惑の渦中にある姿とは一線を画す。


契約更改を果たした翌2011年7月10日にはキャリア3000本目のヒットをレフトスタンドへのホームランで達成。同年9月11日にはルー・ゲーリックを越える球団最多安打記録を更新。文字通り自らの”伝説”に花を添える形となった。


これまた余談だが、ジーターのキャリア3000本目のヒット(ホームラン)を幸運にもレフトスタンドでキャッチしたクリスチャン・ロペス君は、オークションで推定1800万円をゲットするチャンスを獲得した。にも関わらず、試合後ボールをジーターに返却する申し出を行い、関係者の賞賛を浴びた。かわりにロペス君は700万円相当のVIP待遇をヤンキースから約束され、ジーターも共同記者会見を開き、厚意を示したこういったエピソードからもファンのジーターへの尊敬を垣間見えることが出来る。(バリー・ボンズのボールだったら確実に売り飛ばされていただろう。)




最後になったが、やはりジーターといえば華麗なる女性遍歴のネタが外せないが、ココはESPNの企画『ジーターの元カノベストナイン』を拝借することにしよう。





結婚間近まで進んだミンカ・ケリー(キャッチャー笑)のどこがいいのかよく分らなかったが、敢え無く破局。個人的にはジェシカ・ビールとジェシカ・アルバの二大ジェシカで固めた右中間がまじ羨ましい。


ポサダ、ペティット、リベラ、そしてジーターが去った後のヤンキースやメジャーリーグを現時点では想像できないし、あと数十年はこれくらいのビッグスターに出会えるチャンスは無いだろう。球界全体を見渡して今後ポスト・ジーターと呼べるフランチャイズプレイヤーはいるだろうか。


ビッグチームで生え抜き、リーダーシップを持っていて、知的で闘志溢れるプレースタイルの野手。この条件に当てはまるとすればダスティン・ペドロイアやマイク・トラウト辺りの顔が浮かぶが、加えて「ハンサム」だとするとバスター・ポージーが筆頭候補だろうか。個人的にはルーキーイヤーからポージー推しなんで、今後の球界を牽引する存在になってってもらいたいな~なんて思いを胸に、今季のメジャーリーグを眺めて行きたいと思う。

2013年9月21日土曜日

独断と偏見で選ぶボールパーク・ベスト10 『第1位』

第1位/ヤンキー・スタジアム
- ホーム : ニューヨーク・ヤンキース
- オープン: 2010年
- デザイン: POPULOUS (旧 HOK SPORTS)
- 収容人数: 50,291人














かつてニューヨーク(以下NY)に存在していた3つのメジャーリーグ球団の中で、ヤンキースは人気・実力共にNYジャイアンツ、ブルックリン・ドジャースに後塵を拝していた。1919年のオフにベーブ・ルースがボストンから移籍してくるまでは。


それまでNYジャイアンツのホームグランド『ポロ・グラウンズ』に居候させてもらっていた(いわば東京ドーム時代の日ハム的存在だった)ヤンキースはルースの移籍後、彼の活躍によってファン層を急激に拡大し、いつしか家主の観客動員を上回るまでに立場が逆転していく。そこで、それに気分を害した当時のNYジャイアンツのジョン・マグロー監督がヤンキースにポロ・グラウンズからの立ち退きを命じたのだ。


むしろルースのブレイクにあやかってビジネスチャンス拡大をもくろんでいたヤンキースはこれ好都合と、自前の新球場建設を決断する。当初建設予定地にマンハッタンも候補に上がったが、土地の値段が高すぎて断念。結局居候先だったポロ・グラウンズからハーレム川を挟んだ対岸の冴えない材木置き場、ブロンクス161丁目に”初代”ヤンキー・スタジアムを建設する。



(※ウンチクその①:今となってはスタンダードになった野球場に「スタジアム」と名づけたのはココが初めてのケース。)


時は1923年、まさに空前の好景気に沸くアメリカの「狂騒の20年代」の幕開けとともに、”世界の中心”がロンドンからNYへと取って代わり、ベーブ・ルースとヤンキースが、ベースボールの、そしてアメリカ中の主役に躍り出ようとしたまさに前夜なのであった。


その後のルースとヤンキースの活躍と成功は周知の通り、これがヤンキー・スタジアムが「ルースが建てた家」と呼ばれる所以であり、それまで米国において単なる1スポーツに過ぎなかったベースボールが「ナショナルパスタイム」としての地位を確立した所以なのである。



(※ウンチクその②:ベーブ・ルースがこけら落としのゲームで記念すべき球場第1号を放ち、その後ココで通算259本ものHRを放つが、実はココの最多HR記録をはミッキー・マントルの266本である。尚、3位はゲーリックの251本。)


かくして「ヤンキースをポロ・グラウンズから追い出せば、影がうすくなってそのうち消えうせるだろう」というマグローの思惑は大きく外れた。そればかりか、この35年後にはNYジャイアンツがブルックリン・ドジャースとともに西海岸に移転する事になるとは、当時誰も知る由は無かった。



(※ウンチク③:ジャイアンツとドジャースが1957年に揃ってNYから去った後、1962年に新たにNYに誕生したメッツのチームカラーは、ジャイアンツのオレンジとドジャースのブルーをトリビュートしている。)



こうして1923年に開場した”初代”ヤンキー・スタジアムは、当時としては異例の3階建て、7万人収容可能な巨大施設として、その後数え切れない球史の震源地として君臨し、多くの優勝、殿堂入り選手、監督を生むことになる。そして85年の長寿を全うし、2008年にその役目を終え、現在のヤンキー・スタジアムへと歴史は受け継がれたのだ。



(※ウンチクその④:旧スタジアム跡は現在『HERITAGE FIELD』という草野球場&公園に生まれ変わり、草野球場の芝生の上にかつてのダイヤモンドの位置が青いペイントでなぞられている。)


さて、2009年にオープンした現在のヤンキー・スタジアムは本コラムでも連載してきたとおり、1990年以降ボールパーク建設ラッシュの主役となった設計事務所POPULOUS(旧HOK SPORTS)社が15億ドルという途方も無い予算を預かり、満を持して世に送り込んだ力作である。もちろん世界一建設費が高い野球場である。


エクステリアのデザインは1923年のオリジナルに限りなく近づける為、外壁にインディアナ石灰岩を使用。先代の無機質なグレーのコンクリート造りのエクステリアに比べて、黄土色がかった温かみのある表情になった。


フィールドのサイズは旧スタジアムと全く同一のまま再現され(唯一異様に広かったホームベースからバックストップまでの距離が短縮された)、センター後方には世界最大級のLEDビジョン(by三菱電機)を配備、コンコースにはもはやPOPULOUSの作品の定番となった、鉄骨とコンクリートのコンビネーションによるモダンな設計が採用された。フェンスの色も冴えなかった先代の水色から、ダークネービーになり、ぐっと大人っぽい印象に生まれ変わった。


球場内部の至る所にルースを初め、ゲーリック、ディマジオ、マントル、レジー・ジャクソン等々幾多のレジェンドたちの肖像、写真が散りばめられており、特に一塁側「GATE 4」から「GATE 6」にかけて「GREAT HALL」と呼ばれているコンコーススペースは、まるでパルテノン神殿を連想させるような荘厳な造りとなっており、思わずベースボールの神様にお祈りを奉げたくなる気分になる。


一般席とは隔てられたクラブレストランスペースやプライベートスイートはまるで高級ホテルか、3つ星レストランのような雰囲気で、思わずここが野球場だということを忘れさせるほどのクオリティ。特にプライベートスイートの部屋番号はかつてヤンキースに所属した選手が付けた背番号になぞられ、各部屋の入り口には歴代の選手の名前と写真が展示されている演出がニクい。スイート#55には、当然ヒデキマツイの名前と肖像が堂々と掲げられている。


ヤンキースはいまだにユニフォームの背番号の上に名前を入れないスタイルを貫いており、なるほどこの辺りのプライドを体現した演出なのではと推察することが出来る。「3」と言ったらルースだし、「4」と言ったらゲーリックだし、「2」と言ったらジーターでしょ。と。そこに説明は要らないでしょというのがココでのマナーになっている。



(※ウンチク⑤:野球で背番号を初めて採用したのもヤンキースで、当初は打順の通りに背番号が付けられた。だからルースが3で、ゲーリックが4になった。現在もユニフォームに名前を入れないのはヤンキースとSFジャイアンツだけ。逆にユニフォームに初めて名前を入れたのは1960年のシカゴ・ホワイトソックス。)


さて球場内部に話しを戻そう。「GATE 6 」メインコンコースフロアには「YANKEES MUSEUM」という展示スペースがあり、歴代のチャンピオンリングが鎮座している。圧巻は「BALL WALL」という展示で、こちらもかつてチームに所属した選手のサインボールがディスプレイに敷き詰められている。このディスプレイのモチーフは史上唯一ワールドシリーズで完全試合を達成したドン・ラーセンとヨギ・ベラのバッテリーにインスパイアされたシャレた演出になっているので必見。しかしアメリカ人のこうった類のディスプレイの巧さとセンスには毎度脱帽せざるを得ない。


(※ウンチク⑥:旧ヤンキー・スタジアムで達成された完全試合3回は同一球場最多記録であり、内訳は、1956年WSのドン・ラーセン、1998年のデイビッド・ウェルズ、1999年のデイビッド・コーン。ラーセンとウェルズはサンディエゴのPoint Loma High Schoolの先輩後輩という間柄であり、また、コーンが完全試合を達成した試合では、ラーセンが始球式を行ったという強い因縁がある。ラーセンはメジャー通算81勝91敗というごく平凡な投手であったが、いまどきの「持ってる度」で言えばハンカチーフガイや本田圭佑より上、と言える。)


歴代の永久欠番が祀られている「モニュメントパーク」は旧スタジアムからそのまま移転されてきており、現在はセンター後方に鎮座。試合前にはいまだに世界中からの巡礼者が後を絶たない球場随一の人気スポットとなっている。


(※ウンチク⑦:ヤンキースが指定する永久欠番はメジャーでも最多の16個。1、3、4、5、7、8、9、10、15、16、23、32、37、42、44、49。近い将来ジーターの2が加わり、場合によってはトーリの6も認められる可能性大。そうなるとヤンキースの一桁の背番号は完売となる。)


(※ウンチク⑧:旧ヤンキー・スタジアムでは一時期なんとモニュメントパークがセンターのフィールド内にあったことがある。が、邪魔すぎて移動させられた。)


チームストアの充実度も間違いなくメジャー1で、マグカップ、傘、靴下、ベビー服など、、何てこと無いアイテムにNYマークが入っているだけでファンならずとも物欲に駆られるから非常に危険である。女性がLVマークに飛びつくのと同じ心理であろうか。尚、”BOSTON RED SUCKS”といった類のお下品Tシャツは当然球場内のショップには売っていないので、欲しければ試合後場外に出没する露店のお兄ちゃんに聞いてみよう。



(※ウンチク⑨:いまや世界一有名かつ秀逸なスポーツチームのロゴと認められている、ヤンキースのNYマークは、ティファニーがNY市警の名誉勲章用にデザインしたものを流用したのが始まり。)


まあ、この球場の在り方を一言で表現するなら「ヤンキースブランド」の壮大なプレゼンテーションになっている、ということなのだ。この壮大なプレゼンの為に天文学的なカネをかけまくっているのは良く分るが、それ以上にこの球団の持つネタの多さに関心してしまう。よくもまあこれだけスベらんタレントが揃ったなと。。


一方で”最高”は時に”最悪”にもなり得るワケで、この辺のカネのかけ方が少なからず我々にも反映されているという点も見逃せない。それは例えば1試合2,500ドルを超えるネット裏のチケットであり、一杯13ドルのビールなのである。



また、同時に傲慢で態度のデカい係員、下品なブリーチャークリーチャー(※ライト外野席に陣取り、相手選手に容赦ない野次を飛ばす熱狂的なヤンキースファンの事)、この辺りの評価は球界でも最低レベルのものである。


”そこそこ”のチケットを購入しようものなら200ドル超えは当たり前で、もはやファミリーエンターテインメントの域を逸脱した価格設定となっている。ベースボールをナショナルパスタイムの地位に押し上げた立役者のヤンキースが、90年の時を経て全く逆行したトレンドを提案するとはなんとも皮肉、というかいかにもアメリカ的、かつニューヨーク的。こういった所が最も多くのファンを持ち、最も多くのアンチを持つ所以ではないだろうか。


それでもココには全ての野球を愛する人々を圧倒するだけの歴史と伝統があり、誰しもがその一部に触れたがっているということは間違いない。例えば多くの選手が「一度はピンストライプに袖を通してみたい」というのが本音であるように。



試合後にヤンキー・スタジアムで流れるフランク・シナトラの『New York, New York』の歌詞に耳を傾けてみると、まるでそんな人々の気持ちを代弁ているかのようである。


I want to be a part of it.
If I can make it there, I'll make it anywhere.
It's up to you, New York.. New York..

(※歌詞は一部を抜粋)



そう、あくまでit’s up to youではあるが、良くも悪くもヤンキースとヤンキー・スタジアムは、アメリカとベースボールの歴史を誰よりも体現してきた第一人者なのであるから、ココを1位にせざるを得なかった。。



しかし冒頭のベーブ・ルース以降、幾多のレジェンドに彩られてきたヤンキースとヤンキー・スタジアムの伝統も、リベラやジーターが去った後、誰が受け継いでいくのだろうかと未来に想いを馳せずにはいられない。


(※ウンチク⑩:20世紀の米国を代表するスター、シナトラは”野球発祥の地”とされている、ニュージャージー州・ホーボーケンの出身である。)

2013年4月16日火曜日

独断と偏見で選ぶボールパーク・ベスト10 『第2位』

第2位/フェンウェイ・パーク
 - ホーム :ボストン・レッドソックス
 - オープン:1912年
 - デザイン: James McLaughlin
 - 収容人数: 37,499人






本連載でも再三お伝えしてきたとおり、1990年以降MLBにおける新球場建設ラッシュはすさまじく、昨年までに全30チーム中、実に23チームが新球場へ乗り換えを遂げた。その大きなウネりの中で、タイガー・スタジアムや、コミスキー・パークといった歴史遺産も姿を消していった。フェンウェイ・パークとて例外ではなく、2000年代初頭には新フェンウェイ・パーク建設の計画までもが持ち上がっていた。


ところがその計画に待ったをかけたのは当時オーナーに就任したばかりのジョン・ヘンリーと球団社長のラリー・ルキーノであった。彼らは老朽化した球場に大規模な改修を施し、まだまだ現役で使い続けるという意思決定を下したのだ。


実はルキーノはオリオールズの球団社長時代にオリオール・パークを大成功に導いた責任者であり、いわば今日の新球場建設ラッシュのキッカケを作った張本人だったが、過去の成功体験にとらわれない当時の経営判断は見事であった、と現時点では言える。フェンウェイにはフェンウェイの生きる道を選択したというワケ。


当時の改修のポイントは大きく二つ、「球場自体の体力回復」と、「新たな収入源の創出」であった。最も有名な例が『グリーンモンスターシート』である。誰もが思いつきそうで思いつかなかった、グリーンモンスターの上に座席を作っちまおうというアイディアだが、結果的にメジャーきってのプラチナチケットという結果を生み出した。他にも法人向けに営業しやすいスイートルームやグループセクションを作り、限られたインベントリーの価値を最大化することに成功した。


座席数は未だ38,000弱に抑えられているが、人気球団にこの希少性が相まって、米国4大スポーツ記録となる「チケットSOLD OUT連続794試合」を達成した(ご存知の通り、惜しくもつい先日この大記録が途切れたばかり)。尚、シーズンシートにいたってはいまだに孫の世代までキャンセル待ちというのは有名なハナシ。


フェンウェイが米国内はもとより、世界中にマニアックなファンを持つ大きな要因は、ベーブ・ルースやテッド・ウィリアムズといった幾多のレジェンド達がプレーしたという伝統に加えて、ココの極めてアブノーマルでユニークなプロポーションによるものだろう。


なぜこれだけアブノーマルな形の球場が誕生したのは開場当時の事情による。自動車も普及していなかった時代、野球場といえども街の一区画に押し込まれて建設されるケースが普通であり、道路に囲まれたロケーションでは、グランドの拡張ができず、やむを得ず変則な球場が数多く生まれていった。


90年以降の新球場誕生の際も、”非対称球場を意識的に作る”というヤリクチはこういった「いにしえの文化を現世に再現しよう」という手法のひとつなのである。特にフェンウェイのアブノーマルな形状はクリーブランドのプログレッシブ・フィールド等、多くのフォローワーに影響を与えている。


意外に知られていないが、フェンウェイはホームベースから外野フェンスまでの「最短」と「最長」距離を同時に保有している球場なのである。最短は当然グリーンモンスターのレフト側(94.5m)でしょ!と言いたいとこだが、実はライトポール(ぺスキーズポール)までの距離が最短(92m)。最長はセンター最深部の128mとなっている。この辺はちょっとしたウンチクとして押さえておこう。


フェンウェイにまだ訪れたことが無いが、予習もしくはちょっとでも雰囲気を味わってみたい方には、まずは映画『Fever Pitch (邦題:2番目のキス)』をお薦めしたい。


熱狂的なレッドソックスファンの彼氏に、ドリュー・バリモア演じる彼女が「野球と私とどっちが大切なの!?」的な感じで迫っていく本作は、まあ一見普通のラブコメ映画なワケであるが、いかんせん”バンビーノの呪い”を解いた年のレッドソックスの、86年ぶりのワールドチャンピオンへの道のりをドキュメンタリー風なタッチで描いている点や、ジョニー・デーモン、ジェイソン・バリテック等々のスタープレイヤーが実際劇中に登場する様はファンならずとも興奮を禁じえない。


また、普段の野球中継とは違った球場の雰囲気や、ユニークなレッドソックスファンの面々は中々リアルで、お約束の”Sweet Caroline”(後述)がサントラとして流れるのも嬉しい。





さて、ココからハナシが若干脱線するが、この映画内でに気になるフレーズが出てくるので、ついでに取り上げたい。かの有名な”バンビーノの呪い”について、レッドソックスのファン同士がやり取りするシーン。



「当時のオーナーは三流の劇団を存続させる為にベーブ・ルースをヤンキースに売っちまったんだ!」


そう、かつてレッドソックスはハリー・フレージーというブロードウェイでミュージカルを生業としていた、オーナーによって所有されており、彼が本業の劇団運営に困り、当時売り出し中だったベーブ・ルースを現金でヤンキースに売ってしまった、、、これが俗に言う「バンビーノの呪い」の始まりとされているのである。



ちなみに当時フレージーの劇団でトップ俳優を張っていたのが、ドリュー・バリモアのじいちゃん、ジョン・バリモアであった。(この映画のキャスティングがこの縁になぞられているのかは僕は映画評論家ではないので判らない。)


以降レッドソックスと、ヤンキース、ベーブ・ルースの足跡はご承知の通りであるが、実際レッドソックスが86年間ワールドチャンピオンから遠ざかっていた原因は「バンビーノの呪い」ではなく、大きな要因が2つあるとされている。


1つは黒人選手の獲得に最後まで抵抗していた点。ジャッキー・ロビンソンもウィリー・メイズもボストンへ入団するチャンスがあったものの、球団はみすみすその機会を逃した(というか拒否した)。レッドソックスが最初の黒人選手パンプシー・グリーンと契約したのは実にロビンソンのデビューから14年後のこと。すでにこの時までに延べ6名の黒人プレイヤーがメジャーリーグでMVPを獲得していた。偏見が時代を見誤らせたのだ。


2点目は非常に皮肉であるが、このアブノーマルな形の球場にフィットしたチーム作りをできなかった点である。


2004年にはエプスタインの見掛けにより、フェンウェイにフィットした(フライボールを打てる)選手を数多く獲得しそれが的中、見事86年ぶりのワールドチャンピオンの栄光に返り咲いた。また、ペドロ・マルチネス、マニー・ラミレス、デビット・オルティズ、ジョニー・デーモン、デーブ・ロバーツと言った個性の強い”非白人キャラクター”達が躍動した。以降も松坂、岡島、田沢等日本からも積極的に選手を獲得し、21世紀には一転「多国籍軍団」となったレッドソックスには以前のような排他的な雰囲気は(表面的には)見受けられない。


このような歴史を経て、近年レッドソックスが盛んに提言している「RED SOX NATION」はニューイングランド地方に留まらず、全米中はもちろん、中南米、アジアまでその勢力を拡大しつつある。。しかしながらボストンに縁もゆかりも無い人間としてはニューイングランド地方独特のエリート意識が何か鼻にかかるんだよな(厳密にはただのヒガミとも言える)。さぞハーバードやMITでも通っていたらフェンウェイを「第二の故郷」と呼べただろうが(実際そういったエリートはすごく多い)。


そこで、そういったエリートやジモティ達に負けないよう、フェンウェイでの振舞いについて少々レクチャーしておこう。。


ダウンタウンからだらだら徒歩で歩いて球場に向かい、試合開始2時間前にはヨーキーウェイ沿いの露店でビールをあおり、高鳴る気持ちを抑え、平静を装おう。


ゲートオープン直後であればグリーンモンスターシートに潜入できる可能性があるので、打撃練習をそこから見学。HRが飛んでくる確立が半端じゃないので、ボールの1つや2つ拾える可能性大である。試合が始まったら狭いピッチの座席に体を押し込み、ほぼ身動きが取れないと考えたほうが良いだろう。


セブンスイニングストレッチを無難にこなした後は、フェンウェイ名物8回の『Sweet Caroline』の大合唱である。できれば事前にYou Tubeで予習して合いの手だけは最低限押さえておきたい。その頃にはすっかりビールで出来上がった地元ファンと肩組んで観戦していることだろう。


尚、同曲のモデルとなったキャロライン・ケネディは次期、駐日米国大使候補と取りざたされており、もし日本に赴任したらこの曲で出迎えてあげよう。


試合後はホテルに直帰せず、路肩に出没するモグリの露店で非公認のレアアイテムを物色しよう。”Yankees Suck”といったお下品アイテムは公認ショップではお目にかかれないので、気の利いたボストン土産として要チェックしたい。


何だ、俺結構ボストンを満喫してるじゃん。と思ってもやっぱり非エリートのヒガミが障害となり第2位!

2013年3月12日火曜日

独断と偏見で選ぶボールパーク・ベスト10 『第3位』

第3位/AT&Tパーク
 - ホーム :サンフランシスコ・ジャイアンツ
 - オープン:2000年
 - デザイン:HOK Sport(現Populous)
 

 - 収容人数:41,915人





上の写真は数年前にサンフランシスコで観光用ヘリコプターをチャーターし、自ら球場を上空から撮影したものである。


何といってもココの特徴は球場後方がすぐ海!というロケーションである。これはワールドワイドな人気を誇る観光地”ベイタウン・サンフランシスコ”をまんま体現した演出となっており、この手の景観・ロケーションを生かした球場設計は、先日紹介したスタテンアイランド・ヤンキースの『リッチモンドカウンティバンク・ボールパーク』や、ピッツバーグの『PNCパーク』等々、以降HOKの十八番になっていく。


球場後方の海は厳密には湾の”入り江”になっており、かつてジャイアンツで活躍したウィリー・マッコビーにちなみ、「マッコビーコーブ」と呼ばれている。このマッコビーコーブにダイレクトで着水した場外ホームランは「スプラッシュヒット」と呼ばれているが、2000年の球場開場とちょうど同時期に活躍したバリー・ボンズのスプラッシュヒットが本球場を有名にしたらしめたといっても過言ではないだろう。


特にボンズの節目のホームラン記録がかかった試合で、記念ボール(一攫千金)を狙ってマッコビーコーブに群がったカヌーやボートの姿は皆さんも記憶に新しいはず。


ボンズが去った後もオールスターゲームやプレーオフといったビックゲームには、目立ちたがりやの輩が仮装したり、思い思いのデコレーションを施したボートでココに集結するので、ゲームとは別の楽しみとして地味に注目してみよう。


一度彼らの気分を味わう為に、ダウンタウン・ユニオンスクエアから発着している『ダックツアー』への参加をお勧めしたい。ボストンやシアトルでもお馴染みの水陸両用車観光ツアーであるが、SFダウンタウンの観光地を一通り回った後、マッコビーコーブに突入し、湾の中から球場を眺めるという貴重な体験を提供してくれる。(ただし、ツアーの経路についてはいくつかのパターンがあるようなので、事前に確認されたい。)


ライトフェンスがホームベースから近い上に、全盛期のボンズがパカパカスプラッシュヒットを連発していたもんだから、一見「ホームランがよく出る球場」という印象がついてしまっているかも知れないが、実際にはESPNによるパークファクターではMLBのフランチャイズ30球場中、なんと下から2番目の29位となっている。


実は高いフェンスと、湾から吹き込む強烈な海風が左打者にとって、非常に手ごわい相手となっているのだ。


そういえば2007年のオールスターゲームでイチローがランニングホームランを記録しMVPに輝いたのもココだが、アレは打球が右中間フェンスの角度が変わっている部分に当たり、打球を追っていたケン・グリフィーJr.がクッションボールの処理を誤ったことによるものである。言い換えればアレは左右非対称でいびつな外野フェンスの形状がもたらした奇跡と言える。


ライト外野席後方は少々の座席と立ち見スペースがあるが、一般客もアクセス可能なオープンコンコースになっているので、試合中海を眺めながら散策するのもいいだろう。そのままレフト外野席後方に回り込むとこれまた有名なコカ・コーラのオブジェと、巨大グラブが鎮座している。コーラのオブジェの中身は子供用の滑り台になっており4台のチューブが仕掛けられている。一方巨大グラブはホームプレートから150mの距離にあり、未だにダイレクトで着弾した選手はいない。


球場・ロケーションの美しさ、アクセスの良さ、近年のチームの好調も手伝って雰囲気も良く、ほとんどケチの付けようが無い素晴らしい球場であるが、敢えて苦言を。


球場後方の景観を維持する為、観客席を内野側に集約した判断は間違っていないと思うが、その分アッパーデッキの座席数を確保したかった為か、内野の1階席後方は2階席のヒサシが強烈にかぶって視界を妨げられる点が非常にストレスになる(特にフライボールが追いづらい)。


となると通常の内野席は高いチケット料金の割りには満足度が低いので、代わりに1塁側の3階席をお勧めしたい。チケット料金が安価な上に、球場後方のサンフランシスコ湾と、オークランドに向かって架かるベイブリッジが一望でき、これぞサンフランシスコ!という絶景が広がって見える特等席なのである(3塁側席からベイブリッジは見えない)。


観戦のお供には、地元産で有名な『Anchor Steam Beer』を、ツマミには元祖・ガーリックフライこと『Gilroy Garlic Friesがマスト。特に天気のいい日には昼真っからでもグイグイ進んじゃうこと請け合いであるが、カリフォルニアとはいえサンフランシスコの春先、秋口の夜は特に冷えるのでくれぐれも防寒対策は忘れずに。


ココがいよいよ来週に迫ったWBC決勝ラウンドの舞台にもなるわけだが、現地へ足を運べる人も、テレビ中継に釘付けになる予定の人も、こんなくだらない予備知識を持って観戦に望んでいただければ幸いである。「阿部や糸井といったキーとなる左打者がサンフランシスコ湾からの強烈な海風にどう対応するかが鍵だね~。」なんてウンチクで通ぶるのも良いだろう(でもウザがられないよう気をつけて。)


さて、サムライたちがここで躍動できるか否か、今から楽しみである。

2012年12月11日火曜日

独断と偏見で選ぶボールパーク・ベスト10 『第4位』

第4位/リグリー・フィールド 
 - ホーム :シカゴ・カブス
 - オープン:1914年
 - デザイン:Zachary Taylor Davis
 - 収容人数:41,009人




カブスとリグリー・フィールドについてユニークな点は多々あるが、最も感心するのは「球界の常識」にことごとく屈していないという点である。


「野球は太陽の下でやるものだ」というポリシーの元、21世紀に入ってもなお可能な限りデーゲーム開催にこだわり、球場内のスコア表示の類も極めてアナログ且つ最小限に留められているので、試合から少しでも目を離すとアウトカウントすら分からない状態に陥ってしまう。その為か、観客がラジオを聴きながら観戦している確率は全米でもココが最も多いんじゃないだろうか。


場内の座席は現代人の規格にはピッチが狭く、しかも1階席の半分から後ろはアッパーデッキが被って打球(特にフライ)を追えないし、屋根を支える柱があらゆる方向の視界を遮り、球場全体が一見とても不便で理にかなっていない構造となっている。


それでも昼間から多くの観客がスタンドを埋め尽くし、容赦なく敵を野次り、愛するカビー(Cabbie)を応援し、そしてうなだれるという作業をかれこれ100年近く続けている。特に90年代以降のカブス人気は凄まじく、観客動員率は毎試合ほぼ95%の水準で推移しており、チケット入手は困難を極める。


そもそも勝たないとお客さんが球場に来てくれないとか、ナイターじゃないと放映権が高く売れないとか、球場には娯楽施設を用意しなければいけないとか、マスコットが観客を煽らなければ盛り上がらないとか、いわゆる”今日のボールパーク”でまかり通っている常識がココには全く通用していない。球場が雰囲気を作るのではなく、観客が雰囲気を作っていくという究極の空間なのである。


いや、実際には来場した観客だけでは無い。「Wrigleyville(リグリービル)」と呼ばれている球場周辺地域には多くのスポーツバー、非公認のチームストア―やチケットブローカーのショップが軒を連ね、球場後方に隣接した一般民間住宅の屋上から観戦できる「Wrigley Rooftops」なる企画もチケット入手困難な程人気を博している(当初はモグリの企画だったが、現在は入場料収入の17%を球団に支払うことでオフィシャルエンドーサーとして認められている)。


街全体が球場の為に存在しているのか?球場が街の為に存在しているのか?恐らく両方なんだろうな。もはや野球の試合を行うハコという存在を超越し、地域住民の生活の中心であり、活力であり、生きがいなのだろうと思う。この年季の入った濃密な関係性はさすがのHOKでも再現できない世界感である。


本球場を設計したデービスさんは鉄骨球場の創生期に活躍したボールパーク設計の第一人者で、ホワイトソックスの元本拠地(1910~1990年)、「旧コミスキー・パーク」も彼の作品。


フェンウェイのイレギュラーな造形とは対照的で、リグリーはシンメトリーで優雅な佇まいが印象的。レンガ造りでセクシーな曲線を描くバックストップや、元オーナーのビル・ベックにより考案された深緑色のツタが絡んだ外野フェンスの美しさに思わずため息がこぼれてしまう。このご時世に場内の景観を優先し、場内の広告看板の類も極力排除されている点も見逃せない。


リグリーと言えばかつてチームアナウンサーのハリー・キャリーが放送席から身を乗り出して観客と合唱したセブンスイニングストレッチが有名だが、彼の死後は毎回ゲストを呼んでその代役を務める事になっている。


余談だが第40代アメリカ大統領のロナルド・レーガン(1911~2004年没)が俳優に転身する前にカブスのラジオアナウンサーを勤めていたことは有名で、後に大統領となってからのユーモアを交えた名演説の数々はこのキャリアで磨かれたものとされている。しかしながら93年という長寿を全うしたレーガンも、カブスがワールドチャンピオンに返り咲く姿を見届ける事は出来なかった。。


最後にカブスがワールドチャンピオンに輝いたのは1908年の事で、ワールドシリーズ出場ですら1945年を最後に遠のいている。ボストンで「バンビーノの呪い」を解いたセオ・エプスタインが昨年カブスの球団社長に抜擢され、いよいよシカゴで「ビリーゴートの呪い」を解くことが出来るか盛んに注目を浴びている。


しかしながら結果がどうであれ、リグリービルとその住民たちは今日も明日も愛すべき負け犬(Lovable Losers)と共にこの場所で生活し、歴史を刻んで行くのである。この100年間変わらずそうしてきたように。