2009年12月28日月曜日

09’ 総括

今年も残すところあと2日半である。                                      

ふと、昨年末のブログを見返してみた。                                    

正直、やり残したコトだらけである。

しかし一方では、ボストンのフェンウェイ・パークや、今年NYに誕生した新ヤンキー・スタジアムとシティ・フィールドなど、念願の球場訪問も順調にこなし、僕の野球人生の中でも特に充実した濃い一年であった。                                          

                                        

一度は休止宣言したブログも、結局すぐに再開してしまったのは、自分自身の中で野球に対しての愛が溢れ出してきてしまったからである。                                      

来年は、菊池雄星がプロで活躍ができるのか、ハンカチはどの球団に入るのか、ヒデキは新天地LAで活躍できるのか、松坂は復活するのか、イチローは記録を更新し続けるのか、今から野球シーズンが待ち遠しい。                                        

                                     

個人的にはシアトル、サンフランシスコ、LA、サンディエゴなど、西海岸を中心に球場を巡り、可能ならマイナーリーグのボールパークも巡って行きたいと、漠然と考えている。              

             

本ブログも懲りずに細々と続けながら、来年の今頃、僕は何をしているのか、楽しみにしたいと思う。                                                   

それではみなさん、良いお年を!!                                            

2009年12月10日木曜日

富豪の道楽

あの、メルセデスベンツが、現在上海に建設中の新アリーナの命名権(ネーミングライツ)を獲得した。





このアリーナはアメリカのエンターテイメント企業であるAEG(※後述)とNBA、上海のエンターテインメント企業によって建設されている多目的アリーナで、2010年5月に開幕する上海万博の施設としても期待されている。













貝のような形状の美しいデザインが特徴で、高級スイートルームやVIPクラブ、横を流れる河を眺望できるレストランが設置されるほか、20,000平方メートルのショッピングエリアも併設される。しゃれおつ。















アリーナ名は「メルセデスベンツアリーナ」になる予定で、上海万博が終わった後、2011から10年間の複数年契約となる。契約金額は米国ロサンゼルスのステープルズセンター(ご存じLAレイカーズ等の本拠地)の命名権12千万ドル(約108億円)を超えると見られている。メルセデスベンツは、急拡大している中国の高級車市場でのブランドの構築と浸透を図ろうとしており、本国ドイツ国外では初めての契約となる。。。






不況に直面している米国のプロスポーツリーグは、中国市場を睨んだ動きを活発化している。今回大きな命名権契約となったこのアリーナもNBAの中国進出の拠点になることが予想されるため、衰えることを知らないNBA人気が今回の契約を後押ししたともいえる。






先月訪れた東京モーターショーでは、ほぼすべての外国車メーカーが出展を見合わせて、上海モータショーにすべて照準を合わせ、そっちに出展していたしね。。。どうも最近景気のいい話しは中国をはじめとるする、新興国に持っていかれている気がする。





んで今日は、上記のアメリカのエンターテインメント企業『AEG』こと、Anschutz Entertainment Groupについて。






尚、AEGではなく、AGEとなると、若者の間ではアゲと呼ばれ、AGE嬢(アゲ嬢、アゲージョ)なんて言葉も最近では有るらしい。





さてAEG、日本ではあまりなじみのない会社かも知れないが、アメリカのスポーツ業界ではかなりの巨人である。





皆さんご存じの『IMG』はどちらかというとプレイヤーのマネージメント等、”ソフト”が強みなのに対し、AEGは”ハード”(ハコやチーム)が強み。





AEGはフィリップ・アンシュッツというアメリカでも屈指の大富豪が作った会社で、LAレイカーズ、LAクリッパーズの本拠地である、「ステープルズ・センター」を始め、先の上海アリーナのように、全米だけにとどまらず、世界中に40以上のハコを保有・運営・管理している。               

                                                            

 


また以前ベッカムが移籍し、話題になったMLS(メジャーリーグサッカー)のLAギャラクシーはじめ、サッカー、ホッケー、テニス、のプロスポーツチームも数十保有している。


























以前、テキサス・レンジャースのオーナーでもあり、リバプールFCを買収したトム・ヒックスと『Hicks Sports Marketing』のハナシをしたことがあったが、AEGはそれをもっとガッチリ組織化してデカくした感じである。





やっぱ世界中どこでも、大富豪の道楽の究極は、プロスポーツチームのオーナーに行き着くのかね。。。

























ちなみにマイケルの『This Is It』ツアーを実現させた(させかけた)のも、アンシュッツであり、彼がタニマチ的に多額の出演料をマイケルに約束し、ツアー会場となる予定だったロンドンの「O2アリーナ」も、しっかりAEGの持ち物である。





結局マイケルの死によってツアーは実現しなかったが、リハーサル映像を集めて編集した映画版『This Is It』の舞台となっていたのは、同じくAEGのステープルズセンターであり、イベント・興行の仕切りもAEG LIVEという子会社が請け負っていたのだ。




















しかしこれだけアンシュッツは多種多様なハコやチームを保有しているのに、野球チームは一つもないのが気になる。ポリシーなのか、好きじゃないのか、興味がないのか分からないけど。





まあ、そういうことで野球とは直接関係ないハナシに終始してしまったが、知っておいて損は無いかと思ったまで。たまには真面目な感じでそのまま終わりたい。

2009年12月3日木曜日

神の足跡

県営名古屋空港からほど近い、国道沿いにひっそりと佇む”空港バッティングセンター”。
























一見何の変哲もない、とあるイナカの風景だが、ここが少年時代のイチローがチチローと共に足繁く通った場所として、地元ではよく知られている。


























中に入ると大きなイチローのポスターボードと、最近都内ではすっかり見なくなった、昔ながらのアーム式のピッチングマシーンが並ぶ。


























イチロー少年はココで一番速い120km/hのスピードボールには満足できず、特別にバネを強くしたマシーンに、さらに打席の前に出て、それをポンポン打ち返していたそうだ。






その少年の姿を見て、すごい子だな~と感心していたのは、当時ココに同じく通っていた1歳年上の稲葉篤紀である。

























それからおよそ30年の時を経て、この二人が再び出会い、日本代表をWBC連覇に導くとは、何とも奇遇である。




デカもさっそく120km/hに挑戦。












                                                   

速っ。。。




しかし、野球人の端くれとして、血が騒ぐ。























続いて兄貴。
























東京と野球からはかなり遠ざかっているはずなのだが、さすがのバッティングセンスであった。
























続いてS太郎。なにげにこれが人生初打席である。第二のイチローになれるだろうか。










                                                  

まだ身長よりバットの方が長い感じである。



尚、フロントでバッティンググローブ代わりに貸してくれる軍手は、マジ臭いので気をつけよう。




3人は再び車に乗り込み次の目的地へ。。。

バッティングセンターから10分程度、閑静な住宅街の真ん中に、イチローが住友林業(以前CMにも出演)で建て替えた実家が。





併設されているのは個人事務所と、イチロー記念館こと『アイ・ファイン』である。





























                                                 

『アイ・ファイン』





日米であれだけのタイトルを総なめにしているイチローだけに、数え切れないほどのトロフィーやお宝の数々は圧巻。(撮影禁止のため、雰囲気は上記リンクから。)




以前キヨジロウと訪れたヒデキの館も面白かったが、規模も内容もこちらが数段格上である。





イチローはグローブもスパイクも毎年モデルチェンジするらしく、すべての年代のアイテムがズラっと揃っているし、少年時代に使用した勉強机からファミコンまで、なぜかSNOOP DOGGのサインまで、所狭しと陳列されている。(入り口でパチリ。尚、かなり気まぐれに休館するらしいので、万一訪問の際には事前に電話連絡されたい。)



              

                       

                                                 

帰りは寄り道して、名門・愛工大名電の校門前でナムナム拝む。






                                                    

しかしイチローと工藤は常識だけど、山崎武も名電なんだね。恥ずかしながら知らなかった。。。





最後はS太郎と妹のモモとドアラに会いに行き、神の足跡を巡る旅を終了した。





























                                                  

いろいろお世話になりました。

2009年11月26日木曜日

ユニフォームの歴史は野球の歴史 (キテレツ編)

ということで、一部のチームを除いて、ワリと保守的に進化していったメジャーリーグのユニフォームたちであるが、今日現在でさえセンスのないデザインが氾濫している、プロ野球界は正にキテレツユニフォームの宝庫といっても過言ではない。




昨今では米国に倣い、交流戦やら”Turn Back The Clock Day”的なイベントも行われており、皆さんも多種多様なユニフォームを目にされているだろう。













                       
                       
というか、バリエーションが多すぎて、正直どれがどこのユニフォームだか、今現在どのユニフォームが正式なものなのか、イマイチよくわからないくらいである。(個人的に西鉄ライオンズのユニは好き。)



そもそもプロ野球のユニフォームの歴史自体、良くいえば「アグレッシブかつ個性的に」、悪くいえば「全くコンセプトや統一感を欠きながら」発展を遂げてきたと言える。




あまりデザイン的に昔からブレがないのは、阪神、巨人、広島ぐらいなもんである。


























                                                   

そこで、時系列はバラバラだが、今回は個人的に気になるキテレツユニフォームたちを紹介していきたいと思う。




ただし、原則記憶の限りなため、特に古いサンプルに関しては、いつかこの本を購入したらよりよい考察が書けるだろうということで、その辺はまたいつか。




キテレツユニフォーム界の初代チャンピオンと言えば、やはり1973年の日拓ホームフライヤーズの7色のユニフォームだろう。
























日替わり、試合ごとにユニフォームを変えていくという発想、奇抜なデザイン、どれをとっても超一流のキテレツである。






結局球団自体が1年しか存続しなかったため(東映と日ハムの中継ぎ的な感じで)、この7色ユニフォームは短命に終わったが、今もプロ野球史にその名を残す伝説となっている。尚、発案者は当時日拓の社長であった西村昭孝であり、その息子・拓郎は神田うのの現ダンナ。





しかし伝説の7色ユニの王座も、たった3年で奪われることになる。1976年、太平洋クラブライオンズのピンクユニも、殿堂入り間違い無しのキテレツぶりである。
























思わずマスターズリーグと見間違えるくらいのキテレツ具合だが、プルオーバー、ベルトレス、カラーニット、アメフト調のデザイン等、当時の技術とハヤリの粋を集めながら、とにかくその奇抜さだけが印象的。




























アメフト調デザインの採用によるものと思われるが、背面だけでなく、前面にも大きく番号をあしらったタイプは今後も不出世だろう。


























当時は1軍だけで採用され、2軍では別のユニが義務付けられていたそうだが、これでは誰も1軍に昇格したがらなかったのではと同情する。結局ピンクユニは1年でその役目を終えた。







ただ、当時のユニフォーム素材の進歩により、7080年代は、とにかくカラフルなデザインのユニフォームが時代を席巻した。







これはドカベン香川と(まだ投手だった頃の)池田高校を出たばかりの畠山の貴重なツーショット。ソラマメ色のユニフォームとスペースシャトルのイラストがイナた過ぎる。



































その後、南海ホークスはダイエーに身売りされることになるが、ダイエーと言えばガッチャマンヘルメットだろう。


































当時の助っ人、トニー・バナザードがガッチャマンを次々破壊していく姿は、珍プレー好プレーの鉄板ネタだった。







ちなみにガッチャマンヘルメットは、あのイッセイ・ミヤケによるデザインである。























デザイナー繋がりでいえば、岡本太郎が生み出した近鉄バファローズの”角のマーク”は有名だが、最近ではコシノ・ジュンコによる阪神の交流戦ユニはオゲレツデザインだった。しかしファッションデザイナーに仕事を依頼するあたりが安易だよね。。。























最近のキテレツユニフォーム界をグイグイリードしているのは、毎年わけのわからんデザインを次々発表し続けるロッテで間違いないだろう。
























普通にホーム用のピンストライプは悪くないのに、どうもあのギザギザの”ハッピ柄”がキツい。





これはちょっと前、2005年度のタイプだが、パンツが黒いバージョンは、ファンからも「植木職人」と揶揄されていた。






































最後に、、、楽天が今年採用した、ファンによってデザインされた交流戦用ユニだが、大胆にEglesEをあしらったデザインのようだが、どうみても「毛」に見える。







                                                  

こうやってイチイチ突っ込んでいくとキリがないので、またいつかネタがたまってきたら、続編をやりたい。

2009年11月19日木曜日

ユニフォームの歴史は野球の歴史 (白靴下軍団編)

1800年代終盤に産声を上げた野球も、1900年代初頭にはすでにプロリーグが開設。現在のメジャーリーグの原型がすでに出来上がる。







それからおよそ2030年の間でユニフォームのデザインも多様化し、驚くべきことに、ほとんどの名門チームはこの頃のデザインを基本に、大幅な変更がないまま今日まで来ている。







しかし、ユニフォームのデザインに対して、常に変革、革新を求め、時代の最先端を走り続けようとして、成功と失敗を重ねてきたチームがある。






我がシカゴ・ホワイトソックスである





そこでホワイトソックスのユニフォームの歴史を軸に、創成期から今日までの流れを大まかに見ていきたい。






文字通り「シカゴ・ホワイトストッキングス」として産声を上げたチームは、もちろんホワイトストッキング(白靴下)をはいていた。これは1906年、ワールドチャンピオン時の写真。(上着に襟がついているのも必見。)










また、これは1912年当時のNYヤンキースだが、驚くべきことに、およそ100年前のこの当時に、現在のデザインの原型が既に完成している。









んで、1917年のホワイトソックス。ユニフォームの袖には合衆国国旗がこれはアメリカが第一次世界大戦時に参戦したため、ファンや国民のナショナリズムをかきたてようという狙い。これも現在まで続く習わし。下は2001年の同時多発テロ直後に、全球団共通して国旗を背中に入れてプレーした時のもの。












尚、Sの間にOXが入っているユニークなロゴは、通称「○×ゲーム」ロゴと呼ばれ(ウソ)、いまもコアなファンに愛されている。デカは同デザインのキャップを保有している。





こっちは1930年代のブルックリン・ドジャース(現LAドジャース)。フランチャイズこそ変わったものの、おなじみの筆記体のフォントは今日まで受け継がれている。(また上着がボタン留めではなく、ジッパーになっているのも当時のハヤリ。)










さらに、ユニフォームに背番号が付きだしたのもちょうどこの頃。






その後、しばらく経った1960年。ホワイトソックスが大きなトレンドを発信する。










背番号の上に、選手の名前を付けたのだこれが今までありそでなかった手で、あっという間にユニフォームデザインのスタンダードとなった。(ヤンキースやジャイアンツなどのように、いまだに名前を入れないチームも存在するが。ただ、チームストアでは敢えて選手の名前を入れたレプリカユニフォームやTシャツ商品を販売しているケースが多い。その方が分かりやすいからね。)












余談だが、選手の入れ替えが激しく行われるメジャーでは、日替わりでも登録選手の名前を変えられるようにと、背番号はそのままで、選手名の部分だけ独立させて、後から縫いつけるようにしている。(一概には言えないが)この作業が施されているか否かが、実際の試合着用型とレプリカを見分けるコツだったりもするのだ。特に選手の直筆サインものなんかは値段が全然変わってくる。









さて、70年代になると、繊維や裁縫の技術が発達したのか、ストレッチ型のプルオーバーや、ベルトレスタイプ(腹回りがゴム)のユニフォームもお目見えする。プルオーバーもベルトレスもあまり好きではないが、これは日本でも結構流行ったと思う。










順調に進化してきたユニフォームの歴史であるが、1976年、ホワイトソックスに1つ目の悲劇が訪れる。









史上初の、短パンユニである。







よく考えれば、ラグビーもサッカーもバレーボールもバスケも、時にはゴルフもみんな短パンで行う競技なのに、なぜか野球で短パンは違和感を禁じ得ない。(ただ、微妙に”白靴下”に回帰している点は見逃せない。)










結局予想通りというか、あえなく1年で廃盤となった。







デザイン的な云々もあったかと思うが、当時の選手のコメントによると「スライディングが痛い」という評判だったそう。そんなの、やる前に見れば分かるじゃん。








80年代に入ると再びホワイトソックスに2度目の悲劇が訪れる。当時流行ったアメフトタイプのプルオーバー型ユニフォームはまだいいが、なんとレッドソックス(赤靴下)になってしまったのだ。何色にしようと構わないけど、赤にだけはするべきではなかったのではと思うが、どうだろう。写真は現監督のオジー・ギーエン。












ただ、この手のデザインはファンの間では意外と人気で、現在でもチームストアで当時のユニフォームは売っているし、僕もスタジャンを一つ持っている(着てると十中八九、それレッドソックス?って聞かれるのがイヤだけど)。

















結局このデザインは5年間生き延びた。







90年代に入り、新球場(今のUSセルラーフィールド)の開場と同時に、現在のデザインに変更されたデザインはようやく落ち着きを見せることになる。シンプルなデザインでいいとは思うが、一部ファンからは黒色のストッキングが、忌わしい『ブラックソックス事件』(ご存じホワイトソックス選手が首謀した、MLB球史に残る八百長事件。)を思い出させると、皮肉交じりに取り上げられていたこともある。
















上記でざっと100年間の歴史を辿ってきたわけだが、ホワイトソックスや一部の新興球団を除けば、意外とメジャーのユニフォームのデザインは保守的に進化していったと言えよう。球史にその名を残す”キテレツユニフォーム”は、むしろ日本のプロ野球に軍配が上がる。次回はその辺をフィーチャーしよう。







もうちょい続く。。。