2010年11月22日月曜日

愛車精神

野球選手たるもの、乗り回すのは当然高級車、イカツいアメリカンマッスルか、下品にチューンナップされたスポーツカー、というイメージだが、そんなイメージをまんま体現したような人たちが一覧で見れるゴキゲンサイトがあったので紹介しよう。





埼玉は所沢にあるディーラーなのだが、場所柄ライオンズを始め、ヤクルトや中日の選手たちもこぞってココで高級車を購入しているようだ。こんな赤裸々過ぎるサイト、いいのかと余計な心配すらしたくなるところだが、やはり野次馬魂に火がつき気になってしまう。






西武・長田。アウディQ5の前でパチリ。表情とポージングがカタすぎるぞ。
























同じく西武の岸はレンジローバー、涌井はゲレンデの前でパチリ。 この日は大好きなドクロTシャツをコーデ。










































ヤクルト・青木の嫁はミニとパチリ。






















んでその嫁の先輩、大橋美歩と城石は良く見えないが愛車ラングラーと。チャラいぞ、城石!






















これは石井一久のチューニングド・フェラ~リ 。らしい。























亀井、、、とても28歳には見えない、表情がシブすぎる。






















ベテランの谷中はポロ。好感が持てるやないか。。。























石井弘寿は最近見ないと思ったら、CLを購入していた。さすが和製ブラッド・ピッド(自称)






















メジャー組のカズオとマツはなぜか同じ車。キャデラック・エスカレード。



































                                 
タレント化した宮本はFJクルーザーと。パンツのセンスを何とかしたい。





                                 
                               
                               
                               
                                  
                                  
                                 
同じくタレント組の元木。漢字読めなくてもベントレー。しかし宮本といい、パンツの色はジャイアンツへの忠誠心なの?

















                              
                                 
まだまだ色んな顔ぶれがいるので、気になる方は是非

2010年11月15日月曜日

土の匂い

先日、久々に母校のグランドの土を踏む機会に恵まれた。




                                
                               
                                
                                
                              
                              
OB野球大会という名の元に、先輩や後輩と有意義な時間を過ごした。














                                
                               
                                
卒業以来なかなか足を運ぶ機会が無かっただけに、貴重な経験をさせてもらった。




以前より設備は充実したもののの、昔と変わらないグランドの景色。












                                
                               
                               
                                
そして、もつれる足、投げれない肩、変わりゆく体型。






                               
                               
                              
                               
                                
ポップフライ、ゲッツー、エラー、ボーンヘッドには次々罰金が科せられていく仕組みで、一日でなんと8万円近くが集まった。
















                                
                               
この金でパッーととは行かず、、、後輩の為に寄付することとなっている。



なかなか良い企画ではないか。














                               
                             
しかし、みんな野球好きだよね~。

2010年11月8日月曜日

速球王 (最終回)

速球王についてしばしば語られる際、ランディ・ジョンソン、ノーラン・ライアン、ボブ・フェラー、はたまたサチェル・ペイジなど、球史に名を残したレジェンド達が話題に上がるのは当然だが、もう一人忘れてはいけない人物がいる。





”白い稲妻”こと、スティーブ・ダルコウスキーである。





メジャーのマウンドに上がったことすらなく、マイナーリーグでも特に目立った成績を残したワケでも無い選手が、、それでも彼の速球が伝説的に語り継がれているのだから、相当速かったのだろう。





1939年、コネチカットはニューブリテンに生まれたスティーブ少年は、分厚いメガネにIQ60という知能しか持たなかったが、身体能力には恵まれていたようだ。フォレストガンプは足が速かったが、彼の場合は肩が強かった、そんな感じだろう。





野球のピッチャーとしてだけではなく、アメフトのクオーターバックとしても州屈指のプレイヤーとして活躍した後、オリオールズと契約、マイナーでプロ野球選手としての生活をスタートさせた。




























当時オリオールズの監督をしていたカル・リプケンSr.いわく、ダルコウスキーの速球は115マイル(184キロ)程度!だったと言う。






また、「ボルティモア伯爵」こと、17シーズンに渡ってオリオールズの監督を務めた、アール・ウィ―バーは、ダルコウスキーはノーラン・ライアンより”だいぶ速かった”と言っている。具体的な球速まで言及していないものの、101マイルのライアンより”だいぶ速い”となると、105~110マイル(168~176キロ)程度だったのではないかと推測されている。




時には対戦したバッターの耳を引きちぎったとか、



キャッチャーが捕れなかったボールがそのままアンパイアの顔面を直撃し、3日間入院させたとか、



オープン戦で対戦した、最後の4割打者こと、テッド・ウィリアムズは「速いにも程がある。二度と対戦したくない」とか、






オリオールズで活躍した同僚のポール・ブレアは「かつて無いほど速い。そしてワイルドだ。」



などの証言が残されている。



そう、ダルコウスキーは、速いだけでなく、とんでもないノーコンだったのだ。





当時のマイナーリーグの記録を覗くと、ダルコウスキーの登板イニング数と比べて、とんでも無い数の三振と、とんでも無い数の四死球が記録されている。
























結局ノーコンがたたり、一度もメジャーのマウンドを踏まないまま、野球人生を終えたダルコウスキーは酒におぼれ、貧しい生活の中、全米各地を転々とし、ひっそりと消息を絶った。。。




しかしあまりにも速かった速球だけは、いまだ伝説として生き続けている。というワケだ。





今日「最も速かった速球」のギネス記録として認定されているのは、一応ノーラン・ライアンの101マイル(162キロ)とされているが、まだまだ今回取り上げたピッチャー以外にも伝説は尽きない。



























一方で、「球が速ければ良いピッチャー」というワケでは無いことは重々承知なのだが、「100マイルを超える速球」ってのは、いつの時代も野球ファンの胸をときめかせてくれるヒビキなのである。





尚、ダルコウスキーには後日談がある。





1990年代になって身柄を発見されたダルコウスキーは、重度の認知症とアルコール中毒を患っていたものの、徐々にリハビリで健康な身体を取り戻し、2003年の9月、始球式と言う形でついに念願のメジャーリーグのマウンドを踏むことになる。





その時の写真が、、、コレだ。 











































Steve "White Lightning" Dalkowski  
スティーヴ・ダルコウスキー 
(メジャー登板無し)マイナー実働9年 236登板 
995投球回 1396奪三振 1354与四死球 682被安打 46勝80敗 防御率5.59

2010年11月5日金曜日

速球王 (その4)

野球ファンにとっては「サチェル・ペイジ」と書いて「伝説」と読む。






それくらいの存在だろう。。。


























にわかに信じ難い、ペイジの二グロリーグにおける実績は、、、2500試合に登板し、2000勝をあげ、うち完封勝利350、ノーヒットノーラン55回、など枚挙に暇がない。






今日では既に二グロリーグ自体が伝説化しているため、当時のメジャーリーグとのレベルの違いに疑問を持つという意見も多いだろうが、例えば1930年に二グロ選抜とメジャー選抜が対戦した試合では、ペイジは22奪三振を奪い、完封勝利をおさめている。































当時ペイジの投球練習を見たベーブ・ルースの顔がみるみる青ざめていき、そのままベンチ裏に引っ込んでしまったとか、先のボブ・フェラーの「俺のストレートは彼のチェンジアップ」発言や、ジョー・ディマジオが、「対戦した中で最も素晴らしい投手だった」と評価するなど、球界のレジェンドたちのペイジに対する評価がまた彼を神格化している。






ペイジの速球について、当時の関係者は口をそろえて、170キロ以上は出ていたとか、ペイジとノーラン・ライアンを両方受けたと言うキャッチャーは、ペイジの速球は大体179キロくらいじゃないかという意見もある。(てか、そもそも179キロって捕れるの?)

























1947年にジャッキー・ロビンソンが有色人種初のメジャーリーグデビューを果たした翌年、ペイジもまた念願のメジャーデビューを果たした。黒人初のピッチャーとしてマウンドに上がった時、既に彼は42歳を迎えていた。


























その後も再び二グロリーグやマイナーリーグ、各地の独立リーグを渡り歩き、1965年に再びメジャーリーグで登板。既にペイジは59歳であった。恐らくこの最高齢登板記録に関しては今後も破られることが無いだろう。




ペイジいわく、「出生証明書はヤギが食っちまった」らしく、実はもっと高齢だったのではないかと言う憶測もある。「もしも自分の年齢を知らなかったら、今の自分を何歳だと思うかね?」という名言を残しており、真相は闇のままだ。





結局ペイジの速球が何キロ出ていたのか分からんが、彼の登場があと20年、30年遅ければ、数々のメジャーリーグの投手記録を塗り替えていたということは、想像に難くない。





1971年に野球殿堂入り、伝説は伝説のまま後世に語り継がれていく、ということだろう。。。






と、キレイにまとめたかったのだが、もう一回続く。

2010年11月1日月曜日

速球王 (その3)

まあ、ボブ・フェラーの功績については今更述べるまでも無いわけだが、今でも歴史上彼が最も速球が速かったと証言する者は多い。(写真はプログレッシブフィールド@クリーブランドにある、ボブフェラー像とレリーフ)
























あまりにフェラーの球が速いってワケで、1940年、まだスピードガンも無かった時代に、メジャーリーグ事務局が風変りな球速測定テストを行った。































シカゴ市内の公道を封鎖し、警官がバイクで轟音を響かせ、時速85マイル(137キロ)以上のスピードで飛ばして走るのと同時に、フェラーは標的に全力投球した。同事務局はその姿を写したフィルムから球速を算出したところ、時速104マイル(167キロ)だったと公表した。尚、フェラーは平地から投げ、スーツ姿だったらしい。てかそこまで大体的な実験をするなら、なんでスーツ姿で実験したんだろうと思わず突っ込みたくなるが。。







以降、フェラーは第二次世界大戦にかり出され、脂の乗り切っていた3年間を棒に振ってしまうのだが、この期間が無ければ350勝は達成していただろうと言われている(フェラーのキャリア通算は266勝)。































んで、戦争から戻ってきた46年に、再びフェラーのもとにスピード測定の機会が訪れる。米軍が当時の最新のスピード測定装置を準備し、ワシントンのグリフィス・スタジアムで満員の大観衆が見守るなか、フェラーが投げた。測定装置には、投球した瞬間、時速117マイル(189キロ)、ホームプレート通過地点で98マイル(158キロ)と出ていた。従い平均108マイル(173キロ)という実験結果が出た。らしい。






これが事実かどうか議論するほど無駄なことはないが、仮に事実だとした場合、確かにロブ・ネンの102マイルは、「フェラーのチェンジアップ」と言うことになる。






しかしそんな強気なフェラーも、「俺のファストボールはあいつのに比べたら所詮チェンジアップだよ。」と言わしめたのが、あのサチェル・ペイジである。ではペイジは何キロ出ていたのだろう?   




























(尚、写真は、まだまだ元気なフェラーお爺ちゃん。故郷で自らのミュージアムを経営しているので、奇跡的にアイオワに用事ができたら行ってみたいと思っている。以前新聞のコラムで、向井万起男がココを訪れた記事を書いていたが、、さすがマニアと唸らずにいられなかった。)